三部会の第三身分の議員のうち、ブルターニュ出身議員で構成されたブルトンクラブが原型である。ヴェルサイユ行進ののち、ジャコバン修道院で集会が行われるようになり、ジャコバン・クラブと呼ばれるようになる。
1790年の3〜6月にかけて、ラファイエットやバイイら立憲君主派はジャコバン・クラブから脱退し、89年クラブを創設した。一方、ジャコバン・クラブ内では1791年6月の、ルイ16世一家の国外逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)や7月のシャン・ド・マルスの虐殺を期に、国王の責任を追及する左派と、議会と国王を共存させようとする右派が対立した。
この時期、バルナーヴやデュポール、ラメット兄弟などの右派がジャコバン・クラブから相次いで脱退。これに先の89年クラブが合流し、フイヤン・クラブ(フイヤン派)が創設された。この時点でジャコバン・クラブからは立憲君主派が消え、残ったのは、穏健・及び急進的共和派となった。
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1792年、他のヨーロッパ諸国との戦争の気運が高まる。それに対し、ジャコバン・クラブ内では、主戦派と反戦派との対立が始まる。この対立は、主戦派=穏健共和派(ジロンド派)、反戦派=急進共和派(ジャコバン派)という構図であったが、議会では主戦派のジロンド派が実権を握り、4月20日、オーストリアに対し、宣戦を布告した。しかし、革命の余波が軍隊に及んでおり、十分な指揮系統のないフランス軍は敗戦を重ねる(またこのとき、王妃マリー・アントワネットがフランス軍の作戦を敵軍へ提供していたと言われている。)
プロシア軍が参戦するなどの情勢の変化や度重なる敗戦の中、反戦派の中心であったロベスピエールやダントンが主導し、8月10日事件を機に王権の廃止を要求、実現させる。
やがて、国民公会と名のついた議会が開催される。この時点でジャコバン・クラブにはジロンド派・ジャコバン派両派閥の議員が混じって在籍していたが、ブルジョワを支持基盤とするジロンド派と、民衆を支持基盤とする山岳派との対立が深刻になっており、ブリッソーを指導者とするジロンド派は、10月以降次々とジャコバン・クラブから脱退する。
こうしてジャコバン・クラブに残ったのは急進共和派だけとなり、ようやくジャコバン・クラブ=ジャコバン派と呼べる状況となる。また、急進共和派議員の多くは議会で議場後方の高い位置に陣取ったため、山岳派(モンターニュ派)とも呼ばれた。